再開のために

私は2018年の冬から翌年にかけて精力的にブログの更新を重ねた。

文章は連日連夜降り続く雪のようにタイムラインを訪れ、それなりの高さに蓄積した。いくらかの人々が茫漠とした日々の紛らわせにそれらの文章を読んだが、やがて自然消滅的に投稿は停止した。

春になったのである。

雪はそれ以上降らなかった。そして人々はすべてを忘れた。

これは当然のことである。自分の生活の比重は、他人の生活の比重をはるかに凌ぐのだ。家族だろうが、友人だろうが、恋人だろうが、本質的にはそうでしかあり得ない。自分というものは、自分の生活の唯一の管理者である。誰かと交代することも、束の間の休暇を得ることも、不可能だ。

そのようにして、他者である私の生活は忘れられたのだった。

私はこの事実を残念に思わない。桜が手前の季節に落とし去った枝葉のことを、誰が考えるだろうか?陽光にぬるまって溶けていった雪のことを、誰が惜しむだろうか?

無論、人々がそれぞれの生活の続きを維持している間に、私も自分自身を維持していたことは事実である。いくらかの快い出来事、葛藤、多幸感、焦燥…さまざまな情念がないまぜになった幾月かを、世の一般的な学生がそうであるように、私は懸命に通過した。

しかし、再びその期間について記そうとは思わない。私は自分を語ることについて、ある部分で満足し、ある部分で倦んだのだった。もう、十分だ。

 

これからは私でないどこかの人物のことを記そうと思う。

自分の文章が誰かに楽しく読んでもらえたら、それに勝る喜びはない。

 

最後にもう一度だけ、私の現在について綴る。

私は今、ノートパソコンに向かってこの文章を書いている。

八畳間の窓の外では、雨が街路を濡らしている。私はただその雨音を聴いている。

ときおり車が飛沫を上げる。遠くに鳴る救急車のサイレン。湿った空気のにおい。

もう季節は梅雨に入っているのだ…。